名古屋の忍者

サイトのどこかでお話ししたかもしれませんが、ネコノヒゲ、名古屋の中心部に潜伏していた時期がございましす。

 

その際、懇意にしているお茶目なお客様から、このようなお話が。

 



 

(以下、お客様=「客」 ネコノヒゲ=「ネ」)

 

客「……それはそうと」

 

ネ「はい?」

 

客「この間、笹島の交差点(※)でね、面白い人を見かけたんですよ」

 

(※名古屋駅最寄の大きい交差点 会話中のビルから徒歩約5分)

 

ネ「へえ、どんな人です?(ヒゲアンテナ、ピコピコ)」

 

客「それがね(と頭を寄せ、ひそひそ)……忍者なんです」

 

ネ「忍者〜〜っっ!?

 

客「しっ!声が大きい」

 

ネ「すみませんっ!……って、撮影か何かですか?」

 

客「一人で通行人に紛れてましたが」

 

ネ「どんな恰好です?」

 

客「忍者っていったら、あれですよ。正に忍者っぽい風体の」

 

ネ「黒装束で顔隠して、すたたたーって走る感じですか」

 

客「いや、黒装束じゃないし、顔も隠してなかったし、飄々と歩いていました」

 

ネ「? じゃ、刀背負ってて、隙があったら手裏剣飛ばしてそうな殺気とか……」

 

客「んー、そういう感じでもなくて、まったり感のある」

 

ネ「?? ……それ、本当に忍者です?」

 

客「いや〜、あの姿は忍者としか考えられません。ネコノヒゲさんも見かけたら『ああ!』って納得すると思いますよ」

 

 

……脳内「?」の山。

 

ネコノヒゲの想像するハットリくん的な要素ゼロなのに「忍者」?

 

しかし、しょっちゅう笹島の交差点に出没しているとのことでしたので、この話を聞いて以降、時間の許す限り笹島の交差点を人間観察しておりました。(※合間にちゃんと仕事もしていました)

 

 

で、ある日。

 

ついにそれらしき人物を発見!!

 

 

発見……したのですが……。

 

 

    ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

 

後日再びお客様にお会いした際、念のため確認。

 

 

ネ「先日の『忍者』の件なんですが」

 

客「あ、見つけられました?ネコノヒゲさんなら絶対大丈夫だと思っていました(笑)」

 

ネ「どんな確証ですか……(ご期待通りですが)

 

  その方、白髪交じりのポニーテールの男性じゃなかったですか?」

 

客「そうそう、そんな髪型」

 

ネ「で、紺色の丈の短い着物姿で」

 

客「うん」

 

ネ「手首とふくらはぎに布を巻いた」

 

客「……そういえば手足に布巻き付けていましたね」

 

ネ「思ったのですが……あのー多分……

 

  『忍者』というより『浦島太郎』といった方がしっくりくるような……

 

  腰みのは着けていませんし、釣竿も魚籠も持っていなかったんですが」

 

客「あ! そう『浦島太郎』!! そっちです!

 

  いや〜、まさか名古屋のど真ん中で浦島太郎を見られるなんて、すごいですよね〜!」

 

 

……。

 

……。

 

ネコノヒゲがピコピコした対象は、現代に暗躍する忍者であって、決して浦島太郎ではなかったのですが……。

 

まあ、言い違いもこのレベルまで到達すると、いっそ清々しい()

 

 

しかしお蔭様で、このエピソードの後。

 

「名古屋といえば名古屋城」

 

   ↓

 

「名古屋城にも『忍者』はいそうなのに、伊賀流とか甲賀流とか聞いたことないぞ?」

 

   ↓

 

「……調べてみよう!!」

 

という流れで、ネコノヒゲの「名古屋の忍者」探訪が始まったのでした。

 



 

@名古屋に忍者は存在したのか?

「浦島太郎事件」以前にも複数回行ってはいたのですが、改めて名古屋城と愛知県立図書館を(件の通り)しつこく往復して洗い出した結論。

 

……かつて、名古屋に忍者は存在していました!!(嬉)

 

 

もう少しクローズアップされても良いのではないかとも思う反面、そこは「忍者」、あまり表舞台には出て欲しくなかったり……複雑な心境。(生き様に感銘を受けたので晒しますが())

 

 

ネコノヒゲが知りたかった情報を簡単に箇条書き。

 

@名古屋に忍者はいたのか ← いた!

 

A名古屋の忍者の里はどこにあるのか 

 

B忍者の人数

 

C忍者の秘密の任務とは

 

D忍者の表向きの仕事

 

E忍者の給料

 

F忍術の流派

 

 

※名古屋の忍者について調べるにあたり、末裔の1人である岡本柳英様の著書「名古屋城三之丸・御土居下考説」他から多数参考にさせて頂いております。

※ 忍者と名古屋城

名古屋の忍者の里設立には、名古屋城が築城された時の背景が絡んできます。

 

ので、周辺の城も含め、城メインの時系列を。

 

途中の家康キャラが崩壊気味なのは、決して悪意からではなく、敬意をこじらせて脳内変換した結果です……。

 



 

 

★1400年代?〜1521年 那古野氏が、那古野を領有(現・名古屋城二の丸付近)

 

 (建物の名前は特になかった模様)

 

★1405年 領斯波義重が、「清須城(=清州城」築城(現・愛知県清須市一場)

 

 以降、ここが尾張国の中心地として守護代織田家の本城となる

 

★1521年 今川氏親が、那古野に築城

 

 (この時 城に「柳ノ丸」と命名 ※家督を継いだ説有)

 

★1532年 織田信秀が今川氏親を攻め、「柳ノ丸」を領有

 

 (この時点で「那古野城」と命名した説有)

 

 ☆1534年 信長誕生なので、ここが生誕地の可能性として濃厚と言われている

 

★1535年 織田信長が「那古野城」で家督を継ぎ(1歳?)、父の織田信秀は「古渡城」に拠点を移す (那古野城から直線距離で約5km程南に築城)(現・愛知県名古屋市中区)

 

★1555年 織田信長 那古野城清須城(=清州城に本拠を移す

 

 ☆城を大改修し、その後約10年程居城

 

 ☆本拠を移す際「那古野城」は廃城 以降は荒地と化す

 

★1563年 織田信長 美濃攻めを視野に入れ、小牧城を築城 2年後の1565年 ここに本拠を移す (現・愛知県小牧市)

 

★1567年 織田信長 岐阜城に本拠を移す 

 

 ・
 ・
 ・

 

★1582年 本能寺の変 織田信長 自害?

 

 ・
 ・
 ・

 

★1600年 関ヶ原の戦い 豊臣vs徳川

 

徳川勢は大勝したけれど、豊臣勢が今も難攻不落の大阪城に踏ん張っている状況

 

 

江戸城で、徳川家康(当時57歳?)は思った

 

 

今回は勝ったにしても、いつまた江戸に攻め入られるか分からん

 

  ↓

 

関西方面からの攻撃を食い止める拠点が欲しいなー

 

  ↓

 

地理的に東海辺りなんていいんじゃね?

 

  ↓

 

そういや、尾張に「清須城(=清州城」あるよね 

 

今、誰住み? 福島正則君? 関ヶ原の時めちゃめちゃ頑張ってくれた?

 

ごめーん安芸広島に引っ越してくれる?

 

安芸と備後、49万8,200石の大名ってことで(←とても広くて良い領地)

 

OK?

 

じゃ、代わりに、うちの四男のたっくん(松平 忠吉(まつだいら ただよし)19歳?)が清須城の城主ね

 

  ↓

 

★1600年 松平 忠吉 尾張国清洲藩主となる

 

 

★1607年 松平 忠吉 江戸にて逝去(28歳? 関ヶ原の合戦の際負った傷が悪化)

 

★同年 徳川家康の九男、よっちゃん(徳川義直 当時「義利」 6歳?)が尾張国清洲藩主を継ぎ、清須城の城主に

 

 

しかし徳川家康(当時66歳?)は、更に思った

 

 

清須城って、ちょっと地形が戦向きじゃないんだよねー

 

それに五条川近いから、木曽川の氾濫に弱いし、水攻めされたら一発アウトだし

 

  ↓

 

尾張の辺りで他にどっかいい物件ない?

 

  ↓

 

ふむふむ

 

小牧城……古渡城……那古野城……

 

ん? 那古野城の跡地、なかなかいいんじゃね?

 

  ↓

 

……よし!ここに引っ越し決定!!

 

城下町もまとめて全部、都移り(遷府)するよ〜!

 

 

という協議が1609年にあり、1610年(慶長15年)に「城&城下町丸ごと」というスケールのでかい引っ越しがスタート。

 

 

築城は、20家の大名が分担。

 

現場は大混乱に陥りながらも突貫工事で進められ、2年後の1612年(慶長17年)には、三の丸を残して名古屋城は完成したのでした。

 

 

……名古屋って、一回荒れ野になってから復活していたのですね。

 

現代の姿からは想像もつきません。

 

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A忍者の里は、どこにあるのか

ネコノヒゲは反射的に 「忍者の里」=「山の奥深い里」 をイメージしたのですが……。

 

名古屋城周辺は、広範囲で真っ平ら。

 

森林の密生した山など近くに見当たりません。

 

セントラルタワーズやテレビ塔に上ったことのある方々なら、なおさら濃尾平野の「平野」っぷりを体感しておられると思います。(国内第5位の広さ 約1800ku)

 

 

では、どこにあったかと申しますと……大胆にも名古屋城の敷地に隣接

 

 

城がほぼ完成した時「三之丸を残して」と申しましたが、家康、わざとです。

 

そもそも築城の際、たくさんの大名に分業を指示していたのにも理由があります。

 

城の設計図を少ない人数に配布して工事に取り掛からせた場合、万が一敵方に設計図が渡る(もしくは構造を聞き出される)などされたら、攻撃や守備の弱点をつかれたり、あっという間に藩主の元に刺客が辿り着けたりしてしまいます。

 

ですから、分業にすればするほど情報が漏れにくいということですね。

 

 

つまり……そこまで慎重に進めた工事の中でも「特に外部に情報を出したくないものが、三之丸に絡んでいる」。

 

 

で、そのエリアは、どこに??

 

 

名古屋城と城下町関連の古地図・絵図・設計図を片っ端から漁り、名古屋城内1Fの模型に長時間かぶりつき(=「ロゼッタストーン」ばり)、バイブル「名古屋城三之丸・御土居下考説」の図面と突き合わせ。

 

洗い出したのが、ここ。

 

 

《現代地図バージョン》
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なお現代は、住宅街に解説板1枚だけで示されている場所で、「忍者の里」の面影は皆無。

 

今ひとつ当時の位置が把握し辛いので……。

 

《古地図バージョン(名古屋城絵図 江戸時代後期モデル)1》 ※デジタルリメイク版
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(資料ご提供:Network2010様)

 

 

《閑話 1》

 

古地図を見比べていて気づいたのですが……面白いことに、どれも、このエリアと周辺の記載が非常に曖昧。

 

現在、城内に展示されている城&城下町模型も然り。(古地図を元に作成されているはずなので、当然そうなりますよね)

 

 

名古屋城にお越しの際は、地図と模型を見比べると楽しさ倍増しますよ!

 

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《閑話 2》

 

上の現代地図で赤丸表記している「御土居下同心屋敷跡の解説板」の位置情報。

 

名古屋城からほど近い場所にあります。

 

名古屋城東入口側を背にして、南北に走っている大津通を左手(北)に向かい、一つ目の交差点「名城公園南」を右折(東)して150m程進むと、道が二股に分かれています。そこにこの解説板が立っています。

 

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B名古屋の忍者の人数

時代劇の場合、有事に屋根だの木の影だのからわらわら現れ、しかも同じ恰好で素早いので人数が把握し辛い。

 

一体、何人くらい常駐しているものなのか?

 

……と言っても勤務先や仕事内容でだいぶ変わるとは思いますので、名古屋城限定で。

 

        ↓

 

常勤で、最大18名(※年代により変動有)

 

 

です。(※解説板で情報の片鱗が漏れていますね すみません……)

 

 

これを、「多い」と感じるか「少ない」と感じるかは、ご意見の分かれるところでしょう。

 

(しかも、後述しますが、全員が黒装束部隊という訳ではありません)

 

 

前ページの「忍者の里」のエリア内に、一軒ずつ家族と共に居住(※超厳しい審査有)。

 

エリア内には最大計18戸の家があったようです。(跡地を含めると19戸)

 

 

《閑話: 忍者の里の広さ》

 

各家は点在しており、田畑や広い雑木林、一時期は厩もありました。

 

「忍者の里」は、ネコノヒゲが初めにイメージしたより広いかな?と思い、確認しようとしたのですが……。

 

 

・家康が三之丸周辺の絵図を徹底的に隠滅してくれた

 

・築城時の「お堀ぐるっと一周計画」が、三之丸北側あたりでストップ・変更した

 

・明治に入り、このエリアが買収・整地されたため、跡地の痕跡がない

 

 

と悪条件が重なり、公式図面がない!!のです。

 

……人生の中で、リアルに家康に行く手を阻まれる事案が発生するとは予想だにしませんでした。

 

 

何か悔しかったので、「名古屋城三之丸・御土居下考説」の「御土居下屋敷図(天保10年時点)」・城下町絵図類・現代地図を照らし合わせ、ざっくり割り出した面積が、最大で約12600u位でしょうか。

 

あの世でやりたい事の一つに、「家康を探し出して、面積の答え合わせをする」というのが増えました()

 

(注意) あくまでネコノヒゲ独自の概算ですので、ご参考程度にとどめてくださいね。

C忍者の秘密の任務

ここで、忍者という職業のおさらい。

 

★忍者(にんじゃ)とは★

 

鎌倉時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え、または独立して諜報活動破壊活動浸透戦術暗殺などを仕事としていたとされる、個人ないし集団の名称。 (――Wikiより)

 

※諜報活動 …… 間諜(スパイ)活動。古来から世界各国にあるらしい。

 

※浸透戦術 …… 奇襲攻撃のこと。敵勢のウイークポイントを突く。

 

 

国内の忍者は、勤務先で呼称や仕事内容が違ったりします。ですから、厳密には「忍者」とくくれない組織もありますが、例えば

 

 

徳川家光・徳川家綱=隠密

 

徳川吉宗=お庭番衆

 

 

のように捉えて頂くなら、名古屋城の忍者は「御側組(おそばぐみ)」が該当します。

 

正式には「御土居下御側組同心(おどいしたおそばぐみどうしん)」。☆

 

※土居 …… 水害対策の堤防、または防衛目的で造られた土塁(土製の壁・とりで)のこと

 

※同心 …… 主に庶務・警備などの職業に就く役人

 

 ☆長いので、以降「御土居下同心」と呼ばせていただきます。

 

 

「御土居下同心」の面々は、表向きの仕事とは別に、秘密の任務を持っていました。

 

それは、「万が一(落城等)の非常事態に、秘密の経路で脱出する藩主を警護する」というもの。

 

そのため、忍者の里(=同心屋敷)には、常に忍駕籠が用意されていたのです。

 

 

脱出ルートは、こちらの青矢印。
ルート付近の赤塗部分が、忍者の里である「同心屋敷」ゾーン。

 

《古地図バージョン(名古屋城絵図 江戸時代後期モデル)2 避難ルート》
心が疲れた,癒されたい,笑いたい,泣きたい,怒りたい,感動したい,おもちゃ箱,花,植物,人間関係,恋愛,男,女,美容,コスメ,ダイエット
ルート参考: 同心屋敷に受け継がれた、緊急脱出マニュアル資料を匂わせる文献

 

 

 

・城の外に出た後、目立たない場所にある裏階段を下りて、空濠を渡る(埋御門経由)

 

      ↓

 

・南波止場から北波止場まで御濠を渡って、城の北にある御深井御庭に出る

 

      ↓

 

・高麗門を通り、鶉口(非常口)から出る

 

      ↓

 

・清水 - 片山蔵王北 - 大曽根 - 勝川 - 沓掛 - 木曽路へ

 

※片山蔵王 …… 現: 名古屋市北区 片山神社

 

 

城から脱出した後のルートは現役の地名ばかりで、現代の国道や鉄道路線にも活かされているので、結構追いやすい。

 

「上街道(尾張藩のオリジナル脇街道)」を辿って、「木曽路」を目指すのですね。

 

※上街道 …… 東片端(現: 名古屋市東区)〜伏見宿(現: 岐阜県可児郡御嵩町)の約40kmを結ぶ、脇街道

 

 

見切れていますが、北北東にずっと地図を追ってぶち当たる「木曽路(木曾街道=中仙道=中山道)」は、京〜江戸間を結ぶ主要路線の山道。

 

藩主はこの路線に出た後、最終的に家康のいる江戸を目指す予定だったと思われます。

 

 

有事の際、名古屋の忍者達は、藩主を警護しつつ険しい山道を突破する覚悟だったのでしょうか?

 

人には明かせない責務も負いつつ、日々の業務をこなす立場って辛い……。

D忍者の表向きの仕事

全般的に、同心は軽輩(あまり地位・身分が高くないポジション)の方々で構成されていることが多いです。

 

が、忍者としての任務を考えた時、高い役職だと拘束される部分が増えてしまい、いざという時に肝心の機動力が削がれるデメリットも生まれますし、スパイするにも面が割れやすいし。

 

表向きの仕事の匙加減も、なかなか難しい点ではないかと想像します。

 

 

御土居下同心の方々の表向きの仕事は多種多様ですが、ほとんどが世襲の固定。

 

最大18家の同心メンバーが入れ替わることは、特別な理由がない限り、ごく稀だったようです。

 

 

一部の家(約1/3)は、城中勤め。(※たまに仕事内容が変わったりすることはありました)

 

他(約2/3)の固定ポジションは、高麗御門の詰所・清水御門の詰所・東矢来木戸の番所と、御深井御庭の警備

 

 

……この持ち場がどんな意味を持っているかは、脱出ルートを辿ると一目瞭然。

 

 

《補足: 高麗御門と清須越し》

 

御深井御庭にあった高麗御門。

 

現在は残っていませんが、これは清須から都移りした際、丸ごと名古屋城に引っ越してきた門。

 

建築物に限らず、システムとか役職なども含め、都移りしてきたものと名古屋で新設したものとを区別して「清須越しの××」と呼ばれることは結構あったようです。

 

ちなみに、城内の主要な門には大抵「詰所」もあり、門が移設された際も、清須で高麗御門の詰所勤務だった久道家が、名古屋でも職務を継続しています。

 

軽輩とはいえ、清須越え後も御側組の一員となった由緒正しき家柄。

 

清須城勤務時に忍者任務も兼任していたのかは資料不足で未確認ですが、忍者の仕事は、やはり「信用第一!!」のようです。

E忍者の給料

江戸時代の、武士の給料。

 

収入の形態は色々ありますが、名古屋の忍者の給料は俸禄だったので、これを元に。

 

俸禄(ほうろく)=「先祖が過去どれだけ貢献したかで決まっている報酬」+「お仕事の賃金」 の合計収入

 

 

武士のお給料はお米(※時代が下がると玄米に)払いで、毎月支給だったり、季節支給だったり色々。

 

名古屋の忍者がいた時期は玄米時代なので、玄米で金額換算。

 

 

元となる換算方法は、 玄米一石=一両

 

※一石=100斗(=100升)=1000合

 

※1合=約180cc/重さ約150g前後

 

 

1人の一日の食事分(=一人扶持)を5合と計算して、年に三回(=切米)一石七斗七升を支給(端数切り上げ?)が目安。

 

※切米=給料の支払い時期の呼び方 春・夏・冬の三回払い

 

三人家族なら×3。

 

御土居下同心の方々の給料は「切米 七石二人扶持」。

 

年三回支給・家族二人に七石=年収 7両 (=一人3.5両

 

となると、身分の高い方よりやや少なめ?

 

 

しかしこの金額、当時の物価の変動によって価値が相当上下するのと、現代と生活様式が全く違うため、今の価値に換算するのは難しいようです。(参照: 日本銀行金融研究所 貨幣博物館 様)

 

 

なので、素人のネコノヒゲ的目安。

 

 

お米を炊く時は、水が必須。

 

1合(約150g)のお米(or玄米)+水約180cc → 炊き上がった時点で約330g前後。

 

炊いたご飯を「茶碗に軽く一杯」にして計量すると、成人の平均的な茶碗サイズで約100g。

 

(ネコノヒゲには、一日1合がちょうど良い量)

 

江戸時代の標準茶碗サイズは不明ですが、当時の日本人の体格と副菜を考慮しても、5合はなかなかのハードル。

 

米や玄米は換金性のある重要アイテムだったことから、「食費・生活費・貯金諸々」込みで「一日5合」計算なのでしょう。

 

同心屋敷のエリアには田畑もありましたので、俸禄とは別に、日々の食卓に上る食材は可能な限り自給自足して節約していたのかな?と想像しています。(見当違いだったらすみません……)

 

 

《閑話》

 

忍者に限らず、「江戸詰め(=参勤交代による、江戸城での長期勤務)」に当たってしまうと大変。

 

単身赴任の特別手当は出ないので、旅費や準備、実家の妻子と単身赴任先の二重生活を、全て自腹で賄わないといけない!のです。

 

むしろ、「借金しないと江戸詰めに行けないの……」が皆当たり前の状況。

 

ですから、俸禄にあまり余裕のない下級士族の家では、内職をすることも黙認。(身分が高くなると、副業禁止だったようですが)

 

というか尾張藩は「届出すれば、職芸(=副業)OK」というスタンス。

 

ライフスタイルがどう変動しようと、やりくりに頭を悩ませる点は、いつの時代も変わりませんね。

 

 

当時のポピュラーな内職:

 

傘細工・仕立物・提燈細工・唐紙細工・蝋燭の芯巻・こより作り(※元結(まげ等、髪を束ねる)に使う)etc.

 

 



 

F忍術の流派

御土居下同心の方々は、忍者です。

 

しかし、「名古屋の忍者」を掘り下げていくうち、「メディア等から吸収したイメージ+ネコノヒゲの乏しい知識」で構築された、黒装束の怪しげな集団とは少々(というか、かなり)様相が違う事が分かってまいりました。

 

最大18名の名古屋の忍者は、それぞれに剣術・学問や芸術もたしなみ、日々黙々と研鑽しておられ、兵法学者(兼儒学者)・剣術家・詩人儒学者・書家・画家・柔術家など、優れた技量をお持ちです。

 

 

そうか。

 

「刺客っぽい忍者」はイメージの産物だったのか……。

 

 

がっかりというより、己の知識不足を恥じる意味でしょんぼりしかけていた時。

 

……お!?

 

いらっしゃいました!

 

御土居下同心の中に、忍術の専門家がお二人も!!

 

 

広田増右衛門&森島左兵衛。

 

 

= 広田増右衛門 =

 

忍術の達人。

 

藩主の徳川義直(よっちゃん)の直参(=直接仕えていた人)だった増右衛門のお父上が、吉川宗兵衛という忍術家から習得した技を、息子に伝授したそうです。

 

で、吉川宗兵衛は伊賀流忍術家。

 

これを広田家で独自にアレンジしたようですので、名古屋の忍者の流派は「伊賀流ベース+名古屋風味」という認識で良いかと思います。

 

 

彼は関節外しもできたため、細い隙間も楽々通過。

 

お城の石垣も特殊器具を使って軽々越え、また、綱を使ってどこにでも登る。

 

節を抜いた竹を携えて潜水し、何時間も潜ることができたそうです(浅い方が得意)。

 

藩の誰にも忍術を伝授しなかった、一代限りの孤高の忍者。

 

……ただ、「奇行の多い未婚者」という一言紹介が、やけにに引っかかります()

 

 

= 森島左兵衛 =

 

オリジナル忍術&潜水の達人(深い方が得意)。

 

潜水中、泳いでいる魚を捕えることができたという彼は、藩主直命でお濠調査も行っています。

 

 

こちらお二人が、ネコノヒゲ他、海外にも拡散されている「NINJA」のイメージに近いと思われます。

名古屋城と、忍者の里の消滅

名古屋の忍者=御土居下同心の方々は広範囲のジャンルで大変教養が高く、そのレベルも士分(=武士)相当だったそうです。

 

嫁いでくる女性も、「文字の読み書きができないと、御土居下にはお嫁に行けない」と言い含められ、御嫁入り前に猛勉強してきたとか。

 

 

彼らは、家族も含め「御側組」全体で表向きの職務をこなしつつも、常に「有事の対応」を念頭に日々を過ごしていました。

 

また、決して公にしてはならない「影の職務」に対し、一種の誇りも持ち続けていたと思います。

 

 

名古屋城は、築城後大きな戦に巻き込まれることもなく、天下泰平の世を見下ろし続けていました。

 

……しかし、歴史は大きな変革期を迎えます。

 

 

同心が有事に守るべき象徴だった藩主の立ち位置は、やがて明治維新という大きな波に飲み込まれます。

 

俸禄のなくなった同心にも、やむなく一人二人と御土居下を去る者が増え。

 

ひっそりと閉ざされていた忍者の里は、東矢来木戸が取り払われて開放され。

 

本来の役目は知られぬまま、ただ、詫び寂びのある地域として徐々に周囲に知られる小さな町へと姿を変え……。

 

 

そして……日清戦争・日露戦争。

 

 

三之丸が陸軍の練兵場となった後、隣接していた御土居下の町に強制立ち退き命令が下り。

 

残っていた門も撤去・整地され、忍者の里の面影は一切消滅したのです。

 

 

わずかばかりの立退料のみで離散した同心屋敷の方々の中には、棲家を追われて日々の生活に困窮する家もあり。

 

早くに去った方も、消滅しつつある同心屋敷の話に驚いて舞い戻り、しかし巨大な政府の力を前に、為す術もなく右往左往していたといいます。

 

 

そして、1945年5月14日。

 

名古屋城は、第二次世界大戦時の空襲により焼失。

 

 

    ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

 

歴史上の人物として名の挙がる「著名人」達の影には、膨大な人数の「名もなき人々」が存在します。

 

現代を生きるネコノヒゲ達も、今まさに現在進行形で歴史の続きを連綿と紡ぐ者達。

 

(「著名人」か「名もなき人々」かは、もちろん現時点で分からない場合も有)

 

 

幸い、忍者の末裔の方が代々保管されていた文献を手がかりに調査し、書籍を出版されていたことで「名古屋の忍者」の全貌を知ることができましたが、もし出版されていなければ、彼等の特殊任務は、日の目を見なかったでしょう。

 

そういう意味では、名古屋の忍者は「名もなき人々」に近いポジション。

 

 

ただ、彼等同心は、それを良しとしていたんだろうな、と知るごとに感じるのです。

 

名古屋の忍者が秘密の任務に取り掛かる時……それは、裏を返せば、尾張藩と藩主が絶体絶命の時。

 

「我々には出番などない方がいいのだ」と。

 

 

天下泰平を願いつつも、有事に備えて剣術・柔術・忍術等の技を鍛錬し、又は藩主を乗せる忍駕籠を日々点検し。

 

つつましい質素な生活の中で、学問・書・絵画を愛し。

 

秘密の任務に関して、外部には黙して語らぬまま、ひっそりとその役目を終えた同心達。

 

 

「歴史に名を刻む生き様の方が断然かっこいい」と主張する方も多いですし、その気持ちは十分理解できます。

 

けれど、いわゆる「ベンチウォーマー」的なポジションの方々にも、とても心惹かれます。

 

御土居下同心の場合「オフェンス・ディフェンスとも鉄壁の完全試合だったため、出場する機会のなかった、幻の凄腕ゴールキーパー」という方が適切かもしれません。

 

 

有名無名問わず、人ひとりの人生にはそれぞれにドラマがあり。

 

皆等しく歴史を紡ぐ役割を担っている。

 

ネコノヒゲは、そう思います。

 

 

    ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

 

名古屋は、碁盤の目のように美しく整備されている街のひとつです。

 

また、通りや町名の標識も多く掲げられていますが、江戸時代の古地図と比較すると、道も呼称も名古屋城築城当時のまま受け継がれ使われていることに驚かされます。

 

 

標識を見上げながら街を歩いていると。

 

……ふと、狐の遊ぶ荒れ野が。

 

それから、様相は随分違っても、現代と同じく活気に満ちていたであろう江戸時代の賑わいが。

 

そして、当時誰も知らなかった、ひっそりとした忍者の里がシンクロして、何とも不思議な気持ちになるのです。

 

 

……長い小ネタになってしまい、失礼いたしました。

 



 


 
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