児玉希望
《枯野》 1936年 (六曲一双 屏風)
最初に連想したのは、この短歌でした。
「曼珠沙華咲く野の日暮れは何かなしに 狐が出るとおもふ大人の今も」/木下利玄
ネコノヒゲは、野生の狐に出会ったことはありません。
ですから「狐」に対するイメージは、寓話や昔話等から構築されたものです。
主役級で、すぐ思い出せる物語を列挙しますと、
「すっぱいぶどう」
「きつねとつるのごちそう」
「ばけくらべ」
「ごんぎつね」
「てぶくろをかいに」
等々……世界中に「狐」の出てくるものは結構多く(脇役も然り)、総じて「ずる賢い」「悪さをする」役回り。
それに加え、日本のお話で突出しているのが「化かす」能力。
幼心に「狐に会ったら用心しないと」と構える情報ばかり。
(動物園で初めて生きた狐を見た時は、化かされるのでは……と怖々でした)
このイメージの「狐」が、何故ネコノヒゲの中で、曼珠沙華(=ヒガンバナ)と強烈にリンクしているか巡らせた結果、どうやらこの記憶に関わっていたようです。
幼少時、母とのお散歩中に見かけた、真っ赤な花の一群。
不思議な花束のようで、思わず駆け寄ろうとした時、
「触っちゃだめ!毒があるからね。摘んだら死んじゃうんだよ!!」
と叱責され、その後も見かけるたび注意されました。
(※正しくは、摘んだ直後に死ぬ訳ではありません)
ですから、遠巻きに眺めるイメージが強く刷り込まれているのでしょう。
……見えない何かの約束を果たしているかのような正確さで、彼岸に必ず姿を表す、毒を持った美しい花。
出会ったら化かされるかもしれない、狐。
子供の時に感じた、二つの畏怖の念を、この歌が余す所なく表現しているのかもしれません。
でも。
……もしも今。
かさ、と枯れ草を踏みしめ、曼珠沙華の陰から、この作品に描かれたっような狐が顔を出したとしたら。
「怖い」と思う以上に、「やっと会えたね」という、一種の安らぎを抱く気がいたします。
世間の波に揉まれ、疲れた心の隙間に、するりと入り込む「狐」。
幻想的で崇高な、画そのままの空気を纏い、何故か人と心通じ合える眼をした「狐」に、「どうやって化かしてくれるのかな」と、仄かな期待を寄せるであろう自分が、心の片隅にいるのです。