生まれ変わりの話 〜奇妙な記憶から〜
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このような話がございます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ふと気付くと、私は一人でした。
そして状況を把握するのに少々時間がかかりました。
なぜなら一見周囲の景色にこれといった変化はなく、初めは五感の違和感だけが感じられたに過ぎなかったからです。
具体的には、
・ 音というものが一切ない
・ 目の前にいる人物と意志疎通できない → 自分は発声している(つもり)なのですが、自らの声が自分の耳に響かない
・ 温度や痛覚・触覚といった類がない
・ 物に触れられない → 意志をもって「触れる」「物を動かす」ということができない
しかし何より「触れる」以前に、差し伸べているはずの自分の腕が見えません。
本人的に「体がある」という意識があるにも関わらず、視界に入って然るべき手足や胴体がない、といいましょうか。自分の額をなでようとしたら、上げた手と額のどちらにも触った感がなく戸惑う……といった心身の不一致。
また、周囲の風景も、3Dホログラムで出来ているような手応えの無さで困惑しました。けれども徐々に「周囲ではなく『自分の方がホログラムに近い状態になっている』からかもしれない」と認識し始めました。
言ってみれば……外側を覆っていた皮膚が消滅して、細胞レベルまで細かく分解された粒子?部分が露出し、その粒子達が己の意志だけで辛うじて寄せ集まっている(煙・もや・あるいは小さな雲の類?)ような、何とも心許ない存在なのです。(イメージにかなり近いのが、何故かクリオネ)
目の前の風景とホログラム状態の自分のいる場所が重なっている様は、夜の電車……暗い車窓の風景に、明るい列車内が映り込んでいるのに似ていました。
ある時点で「今いるのは、生身の人間が五感で認識できる世界とは違う所なのだ」と悟った時、「もう戻れないのか」と思うと同時に、何故か「約束は果たせないのだな」と落胆していました。(※後程別ページで補足します)
その後、私は「五感の世界」をあちらこちら彷徨いました。
と言っても、この彷徨い方というのが少し妙。
私自身が「見たい」「行きたい」と望む場所に自発的に移動するのではなく、思い浮かべた場所の方が、テレビのチャンネルを変える程度の気軽さで即座に周囲に現れます。
しかも現れる場所は、「五感の世界」にいた頃、実際に訪れた所に限定されているようなのです。
それにしても、私と同じような存在には全く出会いません。……いや……ひょっとしたら、出会っていても、自分の体を目視できないのと同じ理屈でお互いを見ることができない仕組みなのでしょうか。
しかし稀に「形状がはっきりした塊」は「五感の世界」を眺めている途中で見かけることもありました。それが、今の自分と次元が同じかもしれないことは何となく分かりましたが、私自身が常に「自分である」ことを言い聞かせていないと、すぐにも霧散しそうな淡い存在なのに対し、「形状の塊」は強固な意志をもってその姿を保っていることも感じ取れました。
でも彼等はこちらに全く興味がないようです。無視しているのか、そもそもこちらに気づいていないのかは不明ですが。
恐らく自分も頑張れば同等の「塊」になれる気もしましたが、どちらかと言うと「負」の力が勝っていると感じるそれらと同じものに、私は何となく「なりたくない」と思いました。
生まれ変わりの話 〜強い光〜
それにしても、静かです。(※ここには音という概念がないと思われます)
かつていた世界はドーム型スクリーンに映し出される無声映画のように、自分と全く関りなく周囲を淡々と流れるばかりか、体感時間も随分違うようです。
……どれ位の時が経過したのか、一体何をどうしたら良いのか少々困惑していた頃。
ふと自分がどこかに引き寄せられている気がしました。
それはまるで、最初から自身にまとわりついていた見えない糸が、ほとんど認識できない程度のスピードで、ゆっくり“ある方向”に手繰り寄せている感覚。
正確には手繰り寄せられるというよりも、乗り心地の良い自動車や鉄道に乗車している時の「本人は全く体感しないけれど、高速移動している」状態?もしくは「上下移動にこだわらない、ストレスフリーの巨大エレベーターに乗っている」(そんなものがあれば)……ぴったりする表現が未だ見つかりませんので、これ以上の説明は難しいです。
ともかく「離れる」「立ち去る」「飛び去る」という離脱感は皆無で、イメージ的には周囲全体が徐々に薄暗くなり、やがて完全な闇になる、といった方が近いです。しかし闇に対する恐怖感は全く湧かず、むしろ心地良ささえ覚えます。
やがて闇の中に、ぽつんと小さな一つの光が見えました。
最初は針の頭程の大きさでしたが、近づくにつれ、それが実は途方もなく巨大な光であると分かってきました。(地表から見上げた月にそのまま光速で接近できたとしたら、恐らく同じような印象かもしれません)
球状のシルエットは、陽炎のようにゆらめいています。
よく観察すると、それは単一の光ではなく、核となる「強い光」の表面を、別の細かい光の粒が無数に覆って形成されており、光の粒達が絶えず動いているせいで輪郭が揺らいで見えるのです。
光の粒は静電気で吸い寄せられた塵のように「強い光」に向かい、ある粒は逆に離れていくようにも見え、巨大な光の表層は呼吸するようにゆらゆらと輪郭を変えます。
……が、不思議なことに「強い光」から遠ざかる(あるいは近づく前の)細かい光の粒の軌跡は闇に溶けて見えません。光の粒がある程度「強い光」に接近している間に限り、私にも判別できる様です。
そして私自身も、どうやら他の「光の粒」同様、「強い光」に引き寄せられているのだと感じました。
……この「強い光」の正体は、一体何なのだろう……。
圧倒的な存在に、ふと言い知れぬ不安を覚えてこう思った瞬間、何故か脳裏にふわりと「答え」が浮かびました。
『来た場所』、と。
音声として耳に届くものではなく、「言葉+イメージ」が淡々と心に湧く感じです。
無人だと思っていた場所で、不意に見ず知らずの人が耳元レベルで話しかけてきた位の唐突さでしたが、随分長い間(個人的な感覚で)誰とも意志疎通をしていなかったせいか、少々ほっとした部分もありました。
反射的に次の疑問を思いました。
「……あの光の粒は何?」
浮かんだ答えは、
『あなたと同じもの達』
そしてイメージは、人・動物・植物・昆虫から微生物、見たことも聞いたこともない形状のもの……とにかく膨大な数の「光の粒」個々が、それぞれ何かの「生命体」であること。
「人間だけではなく?」
『ヒトばかりが特別な存在ではない』
やはり頭の中で考えれば「答え」が返ってきます。
「『強い光』に近づくと、何が起こるのか?」
『浄化』
浄化……感情を洗う?リセット?のイメージ。
でも完全なリセットではなく、積んできた経験値は保持したまま、しかし生前の記憶だけは抹消してしまうことを指すようです。
一本の樹木に例えるなら、「育った幹の年輪や、次の枝葉や根が芽吹く余地だけ残して、あとは取り除く」といったニュアンスでしょうか。
続けて、
『「強い光」に吸い寄せられる「光の粒」はこれから浄化されるもの、離れるものは再生し次に向かうもの』。
戦慄しました。
つまり、「強い光」に近づけば、見慣れていた自分の髪の先から容姿の欠点どころか、心の奥に潜めた小さな思い出ひとつに至るまで一切合切を取り払われ、私という人格が消滅することを意味します。
人格が消滅したら、約束も果たせなくなってしまう。
それは絶対に嫌だ……!!
いつしか私は「声なき声」に必死に訴えかけていました。
「自分にはまだやり残した事がある。
だから、どうしても今ある記憶を手放す訳にはいかない」
しかし渾身の力を振り絞って呼びかけてももはや答えはなく、「強い光」は加速度的に大きくなり、光度を増幅しています。
違う……光が大きくなっているのではない、私の方が引き寄せられている。
気付いた時には煌めく霧の中に高速で突っ込み、霧状の光は、まるで私の体がガーゼか何かで出来てでもいるようにさらさら通過していき……。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
奇妙な記憶は、ここで途絶えています。
その次の記憶は胎内にいる時「私の存在」を告げられる所まで内容が飛びますので、ここでは割愛します。
眠る卵
これは、幼稚園に上がる前の、ある子供の記憶を基に再現した話です。
ご承知の通り、この年齢は、自分の思う事を完全に伝え切るのが難しい上、「嘘をついてはいけない」などと諭される時期でもあります。
上の再現話を子供の口から語った当時、
「暗かった」「一人ぼっちだった」「遠い所に飛んでいった」「大きい光があって、小さい光がいっぱいあって、大きい光の中に入った」
程度の表現で精一杯なのも容易に想像がつくと思います。
また、ある程度意思疎通できるだけの言語能力があったとしても、肝心の内容が現実と架空のお話との混同だったりすることもままあり、周囲の大人は「まあ、微笑ましい」とうなずくだけの対応にとどめることも少なくありません。
しかし大人が思う以上に、子供は人の言外の気持ちを察する能力に長けています。聞き手が真剣に受け止めてくれていないことを見抜き、話が伝わっていない苛立ちやもどかしさを覚えるものです。
説明してもきちんと伝わらないこと・「作り話」と本気にされない悔しさから、この子供は自分の中にある記憶について語ることを止めました。
……ただ、それが幸いした面も実はありました。「いつか似た状況が起こった時、『これがあの時の話だ』と説明してみせる」と、日常から綺麗に切り分け、原型を損なわない状態で意識の下に沈められたからです。
とは言え、この時期は見るもの聞くもの全てまる飲みする勢いで、知識・経験を吸収するのに忙しい頃。
エピソードは出番のないまま、意識の片隅でひっそり眠る卵のように、いつしか次々積もる日々の出来事の中に紛れていきました。
数年後、ある本のページをめくっていた時、子供は既視感を覚えました。
「なぜ、この人は『この事』を知っているんだろう?あれから誰にも話していないはずのに……」
何気なく思うと同時に、自身が「作者が『この事』を知っていると感じたこと」にも疑問を抱きました。
……あれから?
……『この事』?
思い巡らせ「眠る卵」を探り当てた時の驚き。
なぜなら、日本中(世界中)で著名な作家が、面識もない幼児の戯言など知る由もなく、まして拙い言葉を解析するなどあり得ないという事実を理解する年齢に達していたからです。
にも関わらず、「眠る卵」と類似する部分が多い。
……なぜ自分は、この風景を知っているのか。
……周囲に似たような話をする人は皆無だが、知っているのは自分だけではないのか。
混乱しつつも読み進め、やはり共通の事柄を表現していると確信した上で、子供は保護者の元に飛んでいき、「自分が小さい時に言っていた話と同じことがここに載っている」と、やや興奮気味に本の該当ページを指しました。
しかしその反応は、案の定「ああ、そうなの?そんな話してたかな?ごめん、覚えていないわ」。(……よくある事です)
落胆こそしたものの、この温度差が却って本と作家の不思議さを際立たせたように感じられました。
生まれてから「眠る卵」を探し当てるまでの期間、冠婚葬祭や法事以外、どの宗教色もほぼ皆無の生活環境(良し悪しはさておき)なのに加え、この本が普段は禁じられていたはずの漫画だったせいかも知れません。
その本のタイトルは「ブッダ」。手塚治虫がブッダの生涯を描いたものでした。
漫画全面禁止の自宅に、なぜこの本だけが全巻手元に在ったのか。そして、手塚治虫先生はあのシーンのイメージをどこから編み出されたのか。
どちらも今となっては知る術もありませんが、ブッダがブラフマンと相対するあのページは、今も強烈に焼き付いているのです。
後日知ることになりましたが、「生まれ変わり」の研究の権威であるイアン・スティーブンソン博士は著書内で相当的確な指摘をしていらっしゃるな、と驚いたものです。
・幼児は、言葉を発し始める2〜4歳頃から「自分の前世」について語り始める
・子供が前世について思い出せるタイムリミットは10歳前後まで
「眠る卵」を間断なく降りしきる知識の山から掘り起こす作業は、確かにこの年齢が限度だと思います。運よくネコノヒゲが探し当てられたのは、話し始めたタイミングと手塚治虫先生のお蔭です。
……はい。
上の話は、ネコノヒゲの幼少時の記憶。それを、脚色せずなるべく近い言葉で表したものです。
しかし「記憶の剪定」のせいで所々抜け落ちている箇所がある気がして仕方ありません。
他にも同じような「眠る卵」の持ち主がいらっしゃって、欠落部分をご指摘いただけたら大変助かるのですが……残念なことに、そういう方とは未だ出会ったことがございません。
手塚治虫記念館を訪れたら、何か手掛かりの欠片でも掴めるでしょうか?その辺りはまだ謎です。